哲学的な解析でみた自殺とは
自殺について
先日の令和哲学カフェのディスカッションテーマは「自殺について」でした。
センシティブなテーマではありますが、コロナ禍で増え続ける自殺について、もはや他人事ではいられないのが現状かと思います。
ドイツの哲学者であるショーペンハウアーは著書の中で「自殺」について
「人間の最高の倫理的目的に向うことに対して反抗になってしまう」と書いているそうです。
それに対して、令和哲学者のNoh Jesu氏は
「精神の悩みを生命のレベルで解決しようとしたものが自殺だ」
「自殺する人は生きる意志がないのではない。悲惨な環境を変えられないと思うから自殺してしまう」
と言っていました。
人間は環境に合わせて流されはしても、変えることは困難を要します。
それは、私たちが当たり前に学んできた学問の出発が「存在する物質を目で見ようとする」からです。
物質が存在するものを目で見る出発の学問では、鬱や自殺、殺人や戦争をなくすことはできません。
完全学問として体系化した令和哲学者Noh Jesu氏は、環境を統制し、変化させる方法として
「人間が悟ること」
としています。
目の前に見える世界が、どこからどのような仕組みによって成り立つのかが分かって、
宇宙のすべてが、自分の意識の宇宙であることがわかれば、 自分で環境を統制することができます。
私も、幼少期から何度も自殺を試みた張本人でした。
Noh氏の話を聞いたとき、なぜ私が自殺したかったのか、でもそれでも死に切れなかったのか、それが理解できて、号泣しました。
このことを知らない人達が、昔の私と同じように、貴重な命を自ら投げ出すという行為を繰り返しています。
自殺をする本人が、その周りの人が、環境が問題なのではありません。
環境を統制できる方法を教えられない学問に問題があったといえます。
それらの学問に本物の哲学と本物の学問がなかったからです。
これからは本物の哲学と本物の学問が絶対的に必要な時代です。
この日のアーカーイブがあるので、ぜひ視聴してみてくださいね。