正しい絶望ってなあに?
こんにちは。
今日は「正しい絶望ってなあに?」について簡単にご紹介したいと思います。
そもそも絶望に正しい間違ってる、なんてあるの?という疑問が浮かびませんか?
私も以前はそう思ってました。
ですが、物事を理解して実行へ移し、結果を得るには、曖昧な世界を明確にする必要があります。
令和哲学では「正しい絶望」を簡単に言うと3つで整理できます。
1、
一分一秒も同じ画面を誰とも共有できないのが人間です。
それぞれの経験値、環境、条件、状況、習慣が全く違うので、誰一人として一瞬たりとも同じ画面を見る事は不可能なのです。
また繭に入った蚕状態の人間をイメージしてみると分かりやすいのですが、人間は目で見て存在させて有ることを前提に生まれて死んでいきますが、これは繭の中から一度も出る事なく生まれて死んでを138億年間繰り返している状態です。
これでは永遠に自由にはなれません。
2、
仮に繭の外に出ることができたとしても、無間地獄が待っています。
自分が何者なのかが分かりません。
※無間地獄とは仏教語で、大悪を犯した者が死後絶えることのない極限の苦しみを受ける地獄で八大地獄の八番目。
3、
体を持って生きることが究極の絶望であること。
令和哲学では、体を持っているのが人間であり自分であると思って生きる事は四苦八苦の人生であり、絶対に幸せに離れない、と言っています。
これが意味すること、体を持って生きては1000%幸せにはなれない構造が明確に分かった時に、体を持った人間として生きることを手放すことができます。
究極の絶望と出会った時に、一分一秒を体だけが自分ではない自分として生きる決断と覚悟ができます。
なかなか絶望を掘り下げて考える事はないと思いますので、少し難しいかもしれませんが、頭の片隅にでも置いてみてくださいね。